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越谷御殿跡 [さいたま]

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○越谷御殿・御守御殿
 越谷市御殿町

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 徳川家康越ヶ谷鷹野狩のさい、會田出羽家にて休憩のおり付近の景色が気に入り、御所望遊ばさるままに會田氏がこの地を献納した。 慶長九年増林御茶屋御殿をこの地に移すも、明暦三年江戸大火にて江戸城内に移設、跡地を林とし小林藤左衛門・濱野藤蔵が御林守となったが、元禄八年検地により貢税の地となり、御守殿跡は権現林として小祠を祀るのみとなった。

☆会田出羽家
 慶長九年出羽陣屋のうち六町歩を徳川家康に寄進し越ヶ谷御殿築造、元禄八年武蔵国幕領総検地により江戸に退転し酒商を営む、明暦三年一月江戸大火により御殿は解体され江戸城に移築された。

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☆越ヶ谷御殿
 慶長九年増林にあった御茶屋御殿を会田出羽資久領地内に移設し御殿を築いた。 徳川家康・秀忠らが宿泊し鷹狩りをしたといわれる。 明暦三年一月江戸大火で江戸城全焼したので越ヶ谷御殿を解体し江戸へ運び仮御殿とした。

☆会田七左衛門政重
 信濃国会田郡出身天正九年生まれ、元和年間関東郡代伊奈氏に仕官、七左衛門・越巻・大間野など新田開発、観照院(七左町)に会田七左衛門夫婦座像が残る
※会田家は七軒あった
※会田出羽屋敷地は現在の元荒川河床

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☆千疋(越谷市)
 千疋・南百・別府など、貢租対象の千疋(線引)といわれる。

☆千疋屋総本店
 天保五年武蔵国埼玉群千疋郷(現越谷)の槍術道場主・大島弁蔵が、越谷産の果物(柿・ぶどう・みかんなど)や野菜を売るため江戸葺屋町にて「水果子安うり処(水菓子)」の看板を掲げた。 二代目は八百善出入り業者となり、その後は高級品専門となり徳川家御用商人となった。

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☆越ヶ谷御殿跡
 越ヶ谷御殿は徳川家康によって慶長九年に設けられた御殿です。 御殿の建物に関する詳細は不明ですが、その広さはおよそ現在の御殿町全域と推定されています。 当初この地は越ヶ谷郷の土豪会田出羽の陣屋があった場所でしたが、家康が増林にあった御茶屋御殿を移したものといわれています。 家康・秀忠などがしばし訪れて泊まり、鷹狩をしていた記録が残されています。
 その後、越ヶ谷御殿は明暦三年年の江戸大火によって江戸城が消失したため、将軍の仮殿として江戸城二の丸に移されました。 その跡地は畑地として開発され、現在に至っています。

 越ヶ谷御殿は、徳川家康放鷹時の宿場所として、慶長九年に設営されました。この地は越谷郷の土豪会田出羽の陣屋でしたが、家康の求めによりこの地を差し上げたといわれています。
 規模は現御殿町一帯のおよそ六町余歩で、家康、秀忠はしばしば鷹狩りに越谷を訪れています。のち、明暦三年の江戸大火による江戸城焼失には、この越谷御殿が将軍の居城として、江戸城二の丸に移されました。


☆元荒川伏越(御殿碑下)
 埼玉県では昭和35年から、元荒川の抜本的な改修として瓦曽根溜井の用水分離工事に着手しました。
 この事業では、農地の減少で用水の需用が激減した葛西用水(逆川)を大沢地蔵橋地先で元荒川と切り離し・元荒川の下を伏越樋管でくぐらせて・、越ヶ谷御殿町から柳町まで新水路を開きました。 柳町から瓦曽根溜井までは、中土手が築かれ、二筋の流路となりました。
 この工事はおよそ昭和42年にはほぼ終了しましたが、一定幅に狭められた葛西用水路の溜井敷西側は埋め立てられて、現在の越谷市役所や県の地方庁舎が建設されました。


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