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江戸のうどん・大坂のそば [むかしむくれて]

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○江戸のうどん・大坂のそば
 元禄年間まで江戸にはそば屋は無く、蕎麦はうどん屋でたべるものであった。  ソバはやせた土地でも育つので備荒食として栽培され、「そばがき・そば切り」として食べられるようになり、うどん屋はそば屋に商売替えした。
 大坂はうどんが主流だったが、蕎麦を出すうどん屋が多く・蕎麦専門の店もあった。  古く大坂では「そばがき」を食べる習慣は無く、うどん(しっぽく・おだまき・あん平)が食べられていた。

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○砂場(砂浜だった地名)のそば屋・和泉屋(大坂名物であり、長生きの縁起かつぎでもあった)。 屋根上には、火除けの牡蠣殻。

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○そばがき・そば団子
 元禄時代までは、そばがき・そば団子・そばきりが食べられ、菓子屋の商品であった。  その後つなぎに小麦粉が使われ・茹でてもちぎれない麺が作られるようになった。
※崩れる(ちぎれる)のでセイロで蒸していたのが、今のセイロにのった「もりそば」となった。

☆ざるそば
 江戸深川の伊勢屋が、竹ざるにそばをのせて出したのが始まりといわれる。 その後蒸籠に盛るようになり、明治時代には特製汁と海苔の高級品となり、もりそばとの差別化をはかった。

☆引っ越しそば
 引っ越し蕎麦は、江戸時代から広まった。 それ以前は、小豆粥を重箱に入れて配ったといわれる。

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Sunaba_izumiya大坂 砂場 いづみや

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☆藪そば
 本郷団子坂のそば屋「つたや」、店の周りは竹藪なので「藪のそば」と呼ばれたのを機に店名を「藪そば」と変えた。 明治四十年廃業。

☆更科
 寛政元年、麻布永坂に「信州更科蕎麦処布屋太兵衛」開店、商売上手で江戸中にその名をしらしめた。

☆引越蕎麦
 向こう三軒両隣で合わせて五軒+家主に「引っ越しそば」を配った。 これは、「蕎麦屋の切手(蕎麦券)」も使われたらしい。

☆お捻り
 蕎麦屋が口開けのとき、一杯きりの注文の客を嫌い「御捻」とよんだ。 これが転訛して、銭を紙に包んだものを「お捻り」とよぶようになった。

☆蕎麦の種類
 もり・かけ・あられ(ばか貝・現あおやぎ)・天ぷら(芝海老)・花巻(浅草海苔揉)・しっぽく(焼鶏卵+蒲鉾+椎茸+くわい等)・玉子とじ・鴨南ばん(冬季)・親子南ばん(鶏か雁)・あん平(しっぽく+葛醤油)・をだまき(しっぽく+鶏卵)、など。
※「もりそば」の熱いのは「あつもりそば」。 
※花巻は遊女源氏名でもあった。

☆もりそば・ざるそば
 今は、海苔がかけてあるのが「ざるそば」・かけてないのが「もりそば」、とする店が多い。  古くは、量の違い・蒸籠形状の違い・つけ汁の違い・粉質の違い、などあったらしい。

☆ナンバ
 大阪では、ネギのこと。 難波がネギの産地だった。 この地でうまれたのが「鴨ナンバ(鴨南蛮)」。
※トウモロコシの焼いたもの、もナンバ。

☆米切手、江戸時代はじめよりあったらしい。

☆大阪
 古くは大坂、「土に反る」を嫌って大坂としたともいわれる。 明治以降は、規制したわけではなく、大坂が使われるようになった。

☆大坂
 古くは「大坂」、上町台地あたりの小さな坂で「小坂」。 明応五年頃、蓮如が本願寺石山御坊を築いたさい「小さいより大きい方が縁起が良い」とて「大坂」。  その後明治十年、「大阪」に統一された。
※秀吉が、「小坂城」より「大坂城」が良いとした説もある。

☆大坂
 秀吉が築いたのは「大坂城」、慶応四年大久保年通らの大坂遷都が破れた。 これでは「坂」では土に返るだけ、「阪」にして盛ん・多いと縁起を担いだ。
※すでに天保年間に「大阪」の表記があるともいわれる
※明治十年「大阪」と統一された

☆大政官布告
 大坂→大阪に、江戸→東京(トウケイ)となった。

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Akasaka_meiji○麻布赤坂更科(寛政元年創業)

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永坂更科
 更科蕎麦、庶民には高値の花だったらしい。

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Sarashina_kanban

Kamigata_soba


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