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江戸の寿司 [むかしむくれて]

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 色の薄いのは現代の寿司、江戸時代の寿司は大きかったらしい。

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☆握り寿司
 江戸時代の寿司は大きかったが、その後一口で食べられる大きさとなり、量を同じとするため二貫単位となったらしい。

☆寿司屋の委託加工制
 米統制下時代に米一合を持参すれば、相当量のにぎり寿司を食べることができた。 これがのり巻きをふくめて10貫だったので、今の大きさ・数量が決まったといわれる。

☆五もく鮨
 江戸末、日本橋伊勢屋八兵衛が「交ぜ鮨」を売り出した。
※こけら鮨・越し鮨ともいわれ、後の五もく鮨。

☆江戸前すし
 屋台のすしは一口半の大きさだったが、内店ができると女性や子供客が増えたので食べやすいように大きさを半分にした。 しかし「シャリは仏舎利・仏様の骨も同然、それを切るとはバチ当たり」という者がおり、ならばと切ったのではなく・分けて二個(二貫)としたらしい。

☆寿司飯
 お釈迦様の骨がシャリ、梵語のシャリーラ(sarira)が源。 米のような色・形とも、仏舎利の代わりに納めた水晶玉に似ている、などの説がある。

☆江戸前
 享保年間、江戸前とは鰻のことだった。 
※江戸前の鰻は味が良いのに対し、他方の鰻は旅鰻とよばれ蔑視された

☆毛抜鮓・印籠鮓・握り鮓
 竃河岸の笹巻ずしを称したのが「毛抜鮓」。
※よく食う→よくくいつくのが毛抜き

☆江戸の握り鮓
 玉子・白魚・アナゴ・コハダ・刺ミ(マグロ)・玉子巻・海苔巻・同麁など

☆にぎりずし
 大正までは、鮨は立って食べるものであった。 ただし、鮨屋は座って握っていた。

☆笹巻毛抜鮓・神田小川町
 元禄年間越後国新発田・松崎喜右衛門が江戸ヘッツイ河岸(中央区芳町)で押し寿司店を開き、魚の骨を抜き・笹に包んで客に出した。
 享保年間には江戸名物として大人気になったが、明治三十年七代目が跡継ぎを嫌い親戚の宇田川が店を継ぎ、弟の宇田川石雄が神田淡路町に支店を出し引き継いだ。
※魚の小骨を毛抜きで抜いていたので「笹巻毛抜鮓」

☆与兵衛寿司・東両国
 寛政年間日本橋霊岸島に生まれた与兵衛は、浅草蔵前札差屋板倉屋清兵衛に奉公に出るも銀流しとなり店を出た。 何の商売も長続きしない与兵衛が、ある日こはだのにぎり寿司を作ったところ評判となり、回向院前の横町に店を出した。 その後、両国に屋台を出し・出前にも応じ・店を大きくし、卵焼・車海老・白魚・鮪・鰶・あなごなども握った。

☆小大橋・両国橋
 明治時代、初代忠兵衛が、「大橋」の支店として「小大橋」を開き、厚切り刺身が有名だった。

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