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邑楽伝説(邑楽郡、現板倉町・明和町・千代田町・大泉町・邑楽町) [ぐんま]

Oura91

○玉取姫
 秋妻村の長者の娘は、どうしても「竜宮の玉」が欲しくてたまらなかった。 意を決し・命と引き換える覚悟で竜宮に行くと、玉を手にし帰ろうとした時、竜神に追いかけられ・門の敷居につまづき、やっとのことで玉を自分の乳房の中に隠して逃げ帰った。  しかしながら、この傷がもとで死んでしまった。 こうして、秋妻では門を立てないとした。

○万寿二年、宝日向なる者が来て、沼の辺に居を構え・釜の鋳造(鋳物)を始めた。 なので地名「日向」、鋳物につかうフイゴ(タタラ)から「多々良沼」とよばれた。

○日本武尊命が東夷征伐のおり、朝廷西院の神を祭り・赤城明神を拝したのが赤城塚。

○攻防大師が渡良瀬川を渡ろうとしたが橋も渡し船もなかったが、そこへ大海老が浮かび出てその背を渡ったのが「海老瀬」。

○海老瀬村一峰やまが、寛平元年洪水で二つに割れ 一方が流れ流れて下総行徳に止まった。 これがな「流山」、流れ去った跡が「権現沼」。(離れ山)
※権現沼辺の蛇崩れ岩の穴・釜カ渕は竜宮に通じているので注意。 竜燈が上がるし、膳貸し伝説もある。

○海老瀬村は、昔八谷郷とよばれシドミの花・実がいっぱいだった。 ある日、ホイトがシドミを食べているのを見た海老瀬秀兼がシドミを嫌いになり、八谷郷では実がならないよう祈念したところ実がならなくなった。

○いつも森の上に鳥が高く舞っているので「高鳥」。 菅原道真が筑後左遷のおり従臣岩下氏に自筆自画像を贈った、この絵を祀ったのが板倉・高鳥天神。

○聖徳太子が板倉沼畔で休んだ地が「古太子」、竜馬の蹄を洗ったのが「馬越渡」、瑞穂のはらいをしたのが「御手洗水」、この御手洗水から神前の杉の木に毎夜竜燈が上がったので「竜燈の杉」。

○聖徳太子が板倉沼で休んだとき、その先は竜馬(竜騎)が現れるというので地名を「竜の渕」とした。

○延歴年間、坂上田村麿が蝦夷征伐で賊頭高丸と戦ったが、激戦で矢が尽きてしまった。 すると童子が現れ矢を拾って田村麿に渡し、その矢で敵を射止めた。 この童子こそ「板倉国御水分神」である。(矢拾い童子)
※田村麿が、伊豆の国板倉山から用材を伐りだし社殿を立てたので、その地名「板倉」とも。

○弘法大師が御手洗水で霊城を眺めていたとき杖を流してしまった。 通りかかった老夫婦に杖を貸して欲しいと頼んだが断られ、老婆は杖を懐に隠してしまった。 ので、この地を「姥が懐」。 
※懐の杖は石に変わった。

○寛永十一年、籾谷の沼に光明輝く石の亀が泳ぎ回った。 村人たちはこの亀石を引き上げ、安楽寺に祭った。 その後も亀石は、洪水になると泳ぎ周り・雨が降ると歩き回るので、供養塔を建てたら動かなくなった。

○「おそよ」が夫に斬られたところが中谷村「おそよ橋」、青火や人魂も出る。

○ある昔、一人の行者が冨士講で富士登山を欠かさなかったが、年老いたので最後の富士登山と出かけたが、矢島村まで来たところで力尽きた。 そのとき、傍らの田に富士山の姿が映った。 この地が「御影田」。

○貞観年間、藤原長良公が猪熊森高征伐で凱旋したとき、春日明神に来ると幣を掛けた榊が空に舞い上がった。 この地名が「舞木」。

○藤原長良を祭ったが長良神社、「おさよど」とも唱える。 
※千代田村瀬戸井・長良神社の鳥居には「長良殿」と書かれている。

○古海・高徳寺は、南朝の忠臣小島高徳の開山、高徳が植えた境内のしだれ桜は「高徳桜」。 
※高徳を祭った小島神社もある。


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