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大間々伝説(大間々町、現みどり市) [ぐんま]

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○高津戸城の戦い
 父里見上総入道勝広の敵討ち(山越出羽と石原石見)を企てた里見勝政・勝安兄弟が居館としたのが、1100年頃に築城された高津戸城(1351年桐生国綱により廃城)。 しかしながら、本望を遂げられなかった。(里見十二騎の墓)

○新田芳重の隠し館
 新田芳重が一族の隠れ場所としたのが上州桐原牧新田金塚隠し館、農具・武具などを作った。 金塚は鉱石貯蔵所、ジャンジャン屋敷は溶解所。

○自然のままに暮らしていた念仏行者「行仙房」、村人達に尊敬され・見守られながら1278年入滅した。

○自分の身をけずりながらも村人達に尽くしたのが「おせきばあさん」、後に笹後の「おせき稲荷」。

○江戸へ向かう治良兵衛が一夜の宿を求めた尾池家に形見代わりに置いたお金で建てたのが「茂左衛門地蔵」。

○弘法大師が夢のお告げをもとに、村人達と川底から探し出したのが沢入「大沢寺の庚申様」。 弘法大師が山を下りる途中大蛇と戦ったので山号「竜宝山」。

○狸原の狸石では、タヌキが徳利を背にして踊った。

○楠正成亡きあと連れてこられた愛馬が、大間々狸原で死んだのでその供養としたのが「岩穴観音堂」。 馬の神様として知られる。 一緒に持ってきた守本尊「毘沙門天」を預けたのが「山伏成満院」。

○大間々小平村人が、川上から食器が流れてきたのを見て、上流に住人を探しに行った。 山奥で道に迷い・川を渡れなかった時、猿が道案内してくれたので、この地には「猿橋」。

○大間々小平・八王子様の御神体の石は胡瓜の切り口に似ているので、胡瓜を作らない・どうしても食べるときは円切りにしない。

○大間々小平・姥ヶ窟には、鬼婆が住んでいた。 孫を連れて落ちのびた母が、この地で孫を亡くした悲しみ・寂しさのため、ついには鬼婆になったといれる。

○子供の泣き声が聞こえてきたとき、「自分の孫はどうしているかな」といったので、この地を大間々小平の「孫」。

○大間々塩原・貴船神社祭神の一神の高龗大神は龍神、水を司る神。  穴原薬師は、目の神様。  馬鳴菩薩は、蚕の女神様(蚕影さん)、自分の悪い部分と同じところをなでると治る。 穴薬師は、目の神様。 イボ取りのときは、山芋の実をイボの数だけ繋いで奉納する。 塩沢・虚空蔵菩薩は、弘法大師に関わる仏様。

○1579年新田由良国繁が深沢城を攻めた時の死者を埋めたのが桐生塚、地蔵は頭が四角いので「角地蔵」。

○乞食に姿を変えた天海和尚が、家康の分骨を日光山へ持っていく途中、腰掛けて休んだのが覚成寺「天海和尚の腰掛け石」。 覚成寺で手厚いもてなしを受けたので、守り本尊北辰妙見大菩薩と金の独鈷を残したといわれる。

○伊勢神宮で御神体を流す慣わしがあると聞いた大間々人が、伊勢から御神体を盗み逃げたが、渡良瀬川・塩原で追っ手に追いつかれたので絶壁から川へ突き落としたのが「伊勢ころがし」。

○手振山と要害山での戦で放たれた矢(矢鏃・石斧)が埋まっていたのが「矢畑」。

○突如唸りだした石が「念仏石」。

○「柿渋が太陽の光を受けてで甘くなる、人も薬師如如来の慈悲の光を受けて前任になる」といわれたのが、瑠璃光山光栄寺・柿薬師。

○神楽の獅子頭に似ているのが、大間々・高津戸峡の「かぐら石」。 石原石見守が兵を集めるのに叩いたともいわれる。(叩くとカーンと鳴るそうな)

○「里見の阿弥陀堂」は子供の遊び場、遊んでいる子供を咎めると祟りがある。

○由良国繁に追いつめられた里見の奥方「お伊勢」が身を投げたのが「伊勢ヶ淵」。


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