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切符 (番外編) [1960年代]

京浜東北線・山の手線 入場券シリーズ

当時は、今は亡き磯部君と、こんなの集めていたんだ・・・・・


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コメント 8

京浜東北線

子供の頃、浦和から東京まで一生懸命になって駅名を憶えたことがあったっけ。。

浦和、蕨間は距離がありましたよね!

東京の帰り、日暮里か田端あたりだったか?日も暮れた電車の中から、温泉マークのネオンを眺めて、何だろ〜あれ??とか思ってました。

では
by 京浜東北線 (2005-07-31 13:42) 

YAMADA

南浦和駅ができる前はすごく長く、いつも、運転席の後ろで見るのが好きだった。
当時は小豆色の電車で、この区間では100Km近く出す運転手もいた。

もっと子供の時は、今の東十条駅で車両の連結・切り離しをしていた。
南側端の車両の半分が、婦人子供専用車に仕切られていた時代もあった。
by YAMADA (2005-07-31 15:12) 

f婦人子供専用車

これって車内がペパーミントグリーンでしたよね!確か。。。

当時の電車の木の床に染み込んだオイルの臭い。つり革は文字どうり革のベルト。網棚も木綿の紐で編んであった。日よけは木製鎧戸。ニスでテカテカ。金属の部品にはあちこち真鍮が使用されてたり。鉄製の扇風機の羽がおもそうに廻っていたり。座席は下品な黄緑のベッチン製でしたね。ところどころに太い黒糸でツギが施してあったりして。。。

今でも鮮明に形態が蘇ってきます。 
by f婦人子供専用車 (2005-07-31 16:57) 

すぎ

訂正

ミニカー → by すぎ
婦人子供専用車 → by すぎ
by すぎ (2005-07-31 17:08) 

YAMADA

確かに室内は緑色系であった。 窓は三段窓(真ん中は固定されていない)、カーテンの代わりに木製の鎧戸、扇風機のスイッチは窓際に付いていた。
でもこれは、昭和30年前半頃までではなかっただろうか。
by YAMADA (2005-07-31 18:07) 

すぎ

ついでに言えば、列車も良かった。

スチームの上に足をのっけて、茶色い瀬戸物の急須に入ったお茶をおもむろに飲んで、なぜか冷凍のみかんを食べたりして、紙カップに入ったアイスクリンの蓋を明けると、そこに細かい石炭屑が舞い降りてきたりして。。。で、当時の2等車はヘッドレストに白いカバーが丁寧にかけてあった。。(まっ、あんまり縁は無かったけれど)
by すぎ (2005-07-31 18:43) 

YAMADA

そうだ、子供の頃の長距離は蒸気機関車で、冷房も無いから窓を開け・トンネルに入る度に窓を閉めの繰り返しで、札幌駅に着く頃は襟に煤が付いて黒ずんでいた。 (昔は函館本線経由だったからトンネルが多かった)
トイレも垂れ流しだったし・・・
by YAMADA (2005-07-31 19:22) 

YAMADA

正しくは[老幼優先車]の名称で、1957(昭和32)年に始まり、数年で消えたらしい。
あと、昭和32年に、[下十条駅]から[東十条駅]に変わったそうだ。
by YAMADA (2005-08-05 17:09) 

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