クレシア [さいたま]
☆クレシア・千代田区神田駿河台4-6
キンバリークラーク社が外科手術用脱脂綿代用品「セルコットン」を販売するも、第一次世界大戦が終わり在庫の山となった。 1924年コールドクリーム拭き取り紙「クリネックス」として販売するも売れず、1929年ポップアップ式「使い捨てハンカチ」として販売すると大評判となった。
1964年十条キンバリーがクリネックス販売・山陽スコットがスコッティ発売、1996年合併して「クレシア」となった。
さるや [さいたま]
さるや・楊枝専門店
東京都中央区日本橋室町1-12-5、03-5542-1905
古くは楊柳の木で作ったので「楊枝」。 平安時代、仏家七物の一つとして貴族や僧侶の間に広く普及した。 「猿の歯が白い」・「楊枝屋が猿を連れて売り歩いた」などの説がある。 ただし、江戸では縁起をかつぎ「エテ屋」とよばれた。
※浅草仲見世には楊枝屋が多かったらしい。
※「日本猿の歯が白いので楊枝店の看板にされた」のが有力説。
菊寿堂いせ辰 [さいたま]
☆菊寿堂いせ辰・台東区谷中2-18-9/文京区千駄木2-34-6
元治元年創業。 千葉の辰五郎が日本橋堀江の乾物問屋「伊勢屋惣右衛門」に奉公し、地張り団扇の技術を身につけ暖簾分けした。
元治元年神田に「いせ源」を開き錦絵と江戸千代紙の版元を目指したが、関東大震災でほとんどを焼失した。 その後三代目が、残された版木などを集め谷中に「いせ辰」を再開店した。
※ゴッホがいせ源の浮世絵を所蔵していたといわれる。
(十重箱)
サッポロライオン [さいたま]
☆サッポロライオン・東京都中央区日本橋
明治四十四年銀座五丁目に築地精養軒が「カフェライオン」開店、周辺にカフェ多数出現し経営難となり大日本麦酒へ委譲し「ビヤホールライオン」となった。 その後麦酒業界の変遷と共に変わるも「ビヤホールライオン」は戦争で焼失した。
※銀座ビアホールは、1934年大日本麦酒が開店。
松屋 [さいたま]
☆松屋・東京都中央区銀座
明治二年古谷徳兵衛が横浜に「鶴屋呉服店」創業、明治二十二年神田鍛冶町「松屋呉服店」を買収し東京進出、神田今川橋店を洋館に改装、福袋やバーゲンセールを行った。
関東大震災で神田今川橋店焼失、大正十四年銀座店開店するも客が殺到し・下足が足りなくな急遽下足禁止を止めて履物自由とした。
1931年浅草店開店、屋上はスポーツランド(遊園地)。
竹葉亭 [さいたま]
☆竹葉亭・東京都中央銀座
慶応二年浅蜊河岸(現新富町)で刀預かり所・留守居茶屋開店。 明治九年廃刀令発布により二代目別府金七が酒処「竹葉亭」を開き・鰻を焼いて出すようになり、明治中頃には新富座・東劇・歌舞伎座などに鰻弁当を納めるようになった。 また、鰻焼き名人焼政吉(浅野政吉)がいたといわれる。
※「竹葉」は、酒の異名「ササ」の連想で酒を意味するといわれる。
いせ源 [さいたま]
☆いせ源・千代田区神田須田町1-11-1、03-3251-1229
天保元年創業。 立川源四郎が親戚のどじょう料理「伊勢庄」から独立して神田連雀町に「いせ源」開店。 当初はどじょう料理屋、四代目政蔵があんこうなべ専門店に衣更えした。
※アンコウは動きが鈍く・頭上の触手を動かし小魚をおびき寄せて一口で飲み込む、その姿が太平楽なので「安康」とよび・後に「鮟鱇」となった。
日本橋鮒佐 [さいたま]
☆日本橋鮒佐・中央区日本橋室町1-12-13
大野佐吉が品川沖でシケに遭い佃島に流された折り土地の漁師に雑魚の塩煮をふるまわれ、これをヒントに文久二年醤油で味付けした佃煮を売り出した。
※当初は鮒を串に刺し・タレを付けて焼いていたので、「鮒屋の佐吉」とよばれたのが「鮒佐」となった。(鮒寿々め焼)
山本海苔店 [さいたま]
☆山本海苔店・中央区日本橋室町1-6-3
嘉永二年山本徳治郎が日本橋室町に「山本海苔店」創業。 二代目徳治郎が明治天皇京都行幸の折り御所への土産献上品として「味付海苔」を納め、後に宮内庁御用達となった。
※味付海苔は、ブリキ缶に入れられ市販された。
※梅も海苔も共に香りを尊ぶことから、山本徳治郎が「梅」を商標とした。
イセ食品 [さいたま]
☆イセ食品・鴻巣市箕田3440(工場)
明治四十五年創業。 富山で鶏卵業を営む伊勢多一郎が「伊勢養鶏園」を興し、丈夫で産卵能力の高い鶏を作りだし・1948年には一羽当たり年間300個を産むようになった。
1962年鴻巣に進出し鶏卵生産販売をはじめた。
※森のたまご
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伯方塩業 [さいたま]
☆伯方塩業・今治(松山市大手町2丁目3-4)
1973年創業。 1971年「塩業近代化臨時措置法」により国内塩田全廃し専売制となり、製造も「イオン交換膜製法」に統一された。
そこで松山在有志達が「塩田製塩」を残す運動をし、1973年自由販売塩として許可された。
森八 [さいたま]
☆森八・金沢市大手町10-15/新宿区四谷2-9
加賀藩主前田利家配下亀田大隅の子森下屋八左衛門(宗兵衛)が、寛永二年創業。 明治二年「森下森八」に改称、明治後期に「森八」に改称。
初代八左衛門当初は酒造業、後に菓子業に転業し「長生殿」考案・当初はもち米を練り白地に黒ごまを散らした塩味だった。 三代目八左衛門が和三盆糖を用いて現在の形となった。
※大隅が戦いの折、「龍の爪が玉を掴んだ紋章」を描いた胴丸を着けていた。
福砂屋 [さいたま]
☆福砂屋・長崎市船大工町3-1
寛永元年創業、ポルトガル人からカステラの製法を伝授されたといわれる。
※福砂屋の砂は砂糖のことではないかともいわれる(福健省から砂糖の商)
※古くは「蝠」の字が「福」に通じるとされた。(日本石油のマークもコウモリ )
矢切の渡し [さいたま]
○矢切の渡し・矢切渡船
葛飾区柴又7-18地先に乗場、江戸川・松戸側に白旗が立っていれば運航
寛永八年幕府が、関東郡代伊奈半十郎を管理者として公営渡し場(柴又村舟渡~矢切村)を制定した。
※有限会社矢切渡船は、明治時代から杉浦家が世襲制で引き継ぎ運営・運行している。
モロゾフ [さいたま]
☆モロゾフ・神戸市東灘区向洋町西5-3
1931年葛野友槌「神戸モロゾフ製菓」設立、日本に亡命していたロシア人フィヨルド・ドミトリー・モロゾフの指導でチョコレートを製造販売するも返品などて営業不振、直営店販売に踏み切った。 1936年「モロゾフ製菓」に改称、1941年世情悪化で菓子製造不可、1945年空襲で全焼失。 1946年喫茶店開業、1952年カカオ豆輸入許可となりチョコレート生産再開した。
※1936年2月二代目葛野友太郎が米人記者から欧米習慣を聞き・日本の英字新聞に広告を出した。 これが日本のバレンタインデーの始まりといわれる。
新宿中村屋 [さいたま]
☆新宿中村屋・新宿区新宿3-26-13
明治三十四年創業。 相馬愛蔵・黒光(良子)夫婦が本郷のパン屋「中村屋」を買い取り、そのままにパン屋をはじめた。 明治三十七年シュークリームをヒントにクリームパンを製造販売、明治四十二年新宿に移転しボルシチ・月餅・中華まん・缶入り水ようかんなども販売した。
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木村屋總本店 [さいたま]
☆木村屋總本店・東京都中央区銀座
明治五年創業。 木村安兵衛と英三郎(二男)が芝日陰町で「文英堂」開店するも焼失、翌年銀座に「木村屋」出店。
安兵衛の妻「ぶん」の弟貞助が鉄舟の剣術道場師範代だったので、鉄舟は木村屋のあんぱんが好きだった。 この鉄舟が明治天皇にあんパンを差し上げたところ、明治天皇は喜び「花ぐわし桜もあれど此やどの世々のこころを我はとひけり」と詠んだ。 そしては木村屋は皇室御用達となった。
伊東屋 [さいたま]
☆伊東屋・東京都中央区銀座2-7-15
明治三十七年創業。 竹川町(現銀座7丁目)の洋服商に生まれた伊藤勝太郎が、明治三十五年隣の文房具店を買い取り・文房具店に専念した。 明治三十七年銀座三丁目に移転し、和漢洋文房具「伊東屋」創業。
※伊藤勝太郎、正しくは伊東勝太郎だったとの説もある。
寺西化学工業 [1960年代]
☆寺西化学工業・大阪市旭区生江213-11
大正五年寺西長一が大阪旭区に創業。 1950年頃内田洋行社長内田憲民が欧米から持ち帰った商品をヒントに・三年間の研究の末・マジックインキを造りだした。 当初は全く売れなかったが、山下清が点描画に使い・テレビ普及の波に乗り、広く普及した。
※この理由で、マジックインキの登録商標は内田洋行になっている。
ヤマト [1960年代]
☆ヤマト・東京都中央区日本橋大伝馬町9-10
両国薪炭商に婿入りした木内弥吉、炭を小分け袋詰めして販売しようとしたが封止糊が腐り失敗、改良を加え腐らない糊を開発し行商を始めた。
明治三十二年墨田区に「ヤマト糊本舗」を立ち上げヤマト糊製造販売開始した。
1948年頃中央区横山町5に移転し「ヤマト糊工業株式会社」に分裂改組、矢的ヤマト糊(1955年認可)となる。 1965年「ヤマト株式会社」に社名変更。
※商売が大当たりするには「矢が的に当たる」、なのでヤマトになった。(現会社の商標が矢が的に当たるヤマト、木内弥吉が作ったのは倭糊→大和糊→ヤマト糊)
カモ井加工紙 [1960年代]
☆カモ井加工紙・倉敷市(中央区日本橋室町4-3-9)
大正十二年鴨井利郎が倉敷に「カモ井のハイトリ紙製造所」開所。 第一号商品は机上に置く「平紙」、低価格・高品質で大好評。 1930年天上からぶら下げる「リボンハイトリ」発売、一般家庭必需品として爆発的ヒット商品となった。
戦後殺虫剤が普及し、1946年各種加工紙製造とし「カモ井加工紙」に組織替した。
※ハイはハエの方言
※利郎は鴨井銀三の入り婿