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小菅御殿 メモ [さいたま]

Kosuge_keimusho1旧小菅刑務所・葛飾区小菅1-35

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☆小菅御殿
 古くは将軍鷹狩りなどの別殿、その後伊那備前守忠次が受領するも、宝暦年間没収され・一時は耕作地となった。 文化年間関八州豪農巨商人の米麦貯蓄倉庫となった。
 明治二年一月関東郡代伊奈氏の屋敷跡に県庁を置き小菅県が誕生、明治四年十一月廃藩置県に伴って小菅県は廃止・東京府南葛飾郡に属することとなった。 県庁跡地は約10年間煉瓦工場(小菅煉瓦)となった後、小菅監獄(小菅刑務所を経て現在の東京拘置所)となった。

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○小菅御殿跡(昭和初期以前)


☆小菅御殿
 寛永初年伊奈郡代伊奈半十郎忠治が十万八千余坪の地を下屋敷として賜わった。 その後、代々の将軍が下総小金原鹿狩りの際に利用し、元文元年八代将軍吉宗の命により御殿が造営された。 寛保元年御殿焼失するも、その後再建された。
 寛永四年三月、伊奈左近将監忠尊の時代家中不行届として伊奈家断絶・領地と屋敷が没収された。 寛永六年三月御殿取り壊し、合歓の木だけが残った。

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Kosuge_daikanc○舊代官所跡(昭和初期以前)

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Kosuge_zenizac○小菅銭座跡(昭和初期以前)

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Kosuge_renga1c ○小菅煉瓦工場(明治時代)

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Kosuge_renga2c○東京集治監中央看守所(明治二十一年)

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Kosuge_keimusho2c☆小菅刑務所

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Kosuge_suimonc☆小菅運河水門

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☆小菅御殿
 寛永初年徳川三代将軍家光が、時の関東郡代官伊奈半十郎忠治に下屋敷として西葛西領小菅村の内十萬八百余坪の地を賜った。 その後歴代将軍の放鷹・小金原の鹿狩りなどの御膳所として使われた。 元文二年吉宗の命により新たに御殿を造営し放鷹の止宿所・九代家重(惇信院)の養生所となったが、寛保元年正月十九日焼失、その後再造された。
 寛政四年三月代官伊奈右近将監忠尊の時、家中不行届の罪を以て断絶・領地没収、寛政六年悉く建物など取り払われ御用地となった。
 文化四年江戸町会所の籾倉が建てられ、関東郡代付代官役所(出張所)が設けられた。
 萬延元年亀井戸銭座の別座が設けられ、寛永四文銭が鋳造された。

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小菅御殿(千住御殿)

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Kosugegoten2小菅囲内御蔵敷地絵図

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Kosugegoten5小菅社倉全図

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○小菅圍籾納屋藏建造

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○小金原牧狩立場之図
 下総小金原では享保十年・同十一年・寛政七年・嘉永二年と鹿狩り(牧狩り)が行われ、十万人以上が動員されたといわれる。

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☆蛇の伝説
 小菅町には洪水から村を守った小菅殿と呼ばれる大蛇の伝説が残っている。 『新編武蔵風土記稿』に「塚上に槐の古木あり、古へこの木の窟に大蛇住せしを小菅殿と称せし由、今もこの塚を小菅殿と唱ふ」とある。 この小菅殿に関して、伝わっている話は次のような内容である。

 小菅殿という大蛇が小菅に住みついていた。 最初は村人から気味悪がられていたが、次第に仲良くなり・人気者になっていった。 あるとき小菅に大水が出て村人は避難したが、逃げ遅れた人が出てしまった。 小菅殿は自分の体を橋のようにして、1人また1人と村人を洪水から避難させていたが、最後に力尽きて洪水の中に消えてしまった。 水が引くと小菅殿のうろこが残されていた。 村人は村を救った小菅殿をしのんでそのうろこをいつまでも祠にお祀りした。

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