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見性院墓所 [さいたま]

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○見性院墓所・清泰寺
 さいたま市緑区東浦和5-18-9、048-873-1520

☆見性院
 元和八年五月九日江戸で没、保科肥後守正之が田地を寄進し清泰寺に霊廟をつくった。 保科家が二代後に松平姓と葵紋を許され、見性院にも葵紋が認められた。 後に霊廟は倒壊し、門扉だけが残った。 安政五年、松平家により墓石が建てられた。

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☆見性院の墓
 見性院は、武田信玄の娘で穴山梅雪の妻になった人ですが、会津松平家の祖・保科正之を養育した女性として著名です。 東浦和5丁目の清泰寺に墓があります。 夫・穴山梅雪は、徳川家康と行動を共にしていましたが、本能寺の変の直後に京都で殺害されました。 のち、見性院は大牧村で五百石を領地として拝領しました。 徳川秀忠の子・幸松丸が生まれるとその養育を頼まれ、江戸城田安門内で密かに育てていました。 幸松丸は七歳の時、信濃高遠の城主保科家の養子となりました。 後に徳川家光の弟ということで昇進し、山形から会津に移り・二十三万石の大大名になりました。 幕政にあっては家光を補佐し、四代将軍徳川家綱の時は副将軍として活躍しました。 これより前、見性院は元和八年五月七日に没し、清泰寺に葬られ・墓標にケヤキが植えられ、正之によって霊廟が作られました。 以後、会津松平家が回忌法要を営んだり・墓石を建てたりしました。 墓前の扉は旧・霊廟のものです。

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☆見性院霊廟三具足
 松平肥後守寄附・寛政元年二月等の銘
 真鍮製、香炉高24.0cm・獅子の飾り、花瓶高27.3cm、燭台高60.1cm・蝶の飾り。

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☆清泰寺の庚申塔
 清泰寺の境内には垣根のように351基の庚申塔が並んでいます。 このように1カ所にこれほどまとまって庚申塔が存在していることは極めて希なことです。 その内の349基は高さ54㎝・幅26㎝・厚さ8㎝程の駒形で、正面には「庚申塔」と・左下には寄進者の住所氏名が刻まれています。 他の2基はそれぞれ形が異なっていて、1基は舟形の青面金剛像が浮き彫りにされたもので、天明三年に嶋根忠右衛門らが50基を奉納したことが刻まれています。 もう1基は、自然石を利用し・正面に「庚申塔」と文字が刻まれています。 刻まれた銘文から、万延元年に300基を奉納したことや、当地の利根沢貞慶ら3人が施主となり寄進を募り奉納したものであることがわかります。 また、寄進者の範囲は近在だけでなく、遠く東京都や千葉県にも及んでいますので、江戸時代後期の庚申信仰が隆盛であったことを示す良い資料でもあります。 昭和33年に市指定文化財に指定され、現在も大切に保存されています。

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