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宇津救命丸 [さいたま]

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☆宇津救命丸・千代田区神田駿河台3-3

 下野国宇都宮家二十三代目国綱がとり潰しとなり、その家臣宇津御右衛門は慶長二年下野国高根沢西根郷に戻り帰農することになった。 五代目宇津御右衛門は江戸で医学を学び、宇津家秘薬「金匱救命丸」を改良し広めた。
 明治末、薬問屋福井商会(福井益吉)により、「宇津救命丸」として全国で発売されるようになった。

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☆宇津救命丸
 慶長二年宇都宮家二十三大当主国綱が豊臣秀吉により改易され、御殿医だった宇津権右衛門は下野国高根沢西根郷に帰農し・半農半医として村の名主となり、村人達のために「宇津の秘薬(金匱救命丸)」を創製し・村民には無償配布された。 救命丸の処方は極秘とされ代々引き継がれ、密かに誠意軒で調合・製剤された。 救命丸の効果が認められるようになると、広く委託販売された。
 延享三年高根沢郷が一橋家の領地となり、天明元年救命丸が小児用として一橋家に献上され、救命丸の名声がさらに高まった。
 明治四十二年「金匱救命丸」は「小児薬王宇津救命丸」に改称された。

※宇津家では「滋養強壮・一角牛黄丸」や「婦人薬・延寿清心散」も製造していた。

※あるとき門前に倒れた旅の僧侶、介護の甲斐なくいまわの際に渡された書物に処方が書かれていた。 との伝説もある。(養命酒酒造にも同様の伝説がある)

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○養命酒
 400年程前信州伊那の谷に源平時代からの草分けと称される大庄屋の塩沢宗閑がいた。 この翁が慶長四年或大雪の日に行倒れていた旅老人を救ったところ、この人は由緒ある本草学者で霊酒の秘法を会得していたが、幸いこの地は天然の気候風土・原料等に恵まれているところから、その秘製法を伝授して去ったと伝えられている。
 これより宗閑翁ほ牛に跨って深山幽谷を験歩し・薬草を集めて霊酒の醸造に没頭したが、慶長七年遂にみごとな製品を生んだ。 翁はこの霊酒こそ生命を養ふものであるとして「養命酒」と名付け、更にその神秘な効力の象徴として「龍ほ一寸にして昇天の気あり」と云う意味から商標を「飛龍」と定めた。 それより「飛龍」は養命酒の印とされてきたが、創業三百年これを特許出願して登緑された。 

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