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三佛寺 [さいたま]

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○三佛寺
 川口市戸塚南4-19-33

 徳川家光が家来彦左ヱ衛門ともども日光から逃れ戸塚権現道であばら屋に宿を求めた。 その家の爺がありあわせの雑炊でもてなしたが、将軍は何の持ち合わせもないので「後日江戸城に来るように」と立ち去った。
 何年待っても爺が来ないので将軍は金の茶碗を手みやげに使者を向けると、爺は「何にもいらない、静かに寝られれば良い」。 困った使者は「周りの土地が欲しいと言った」と告げると、殿様は二百石を与え・三佛寺を建立した。
※金の茶碗は行方不明らしい。

徳川家 について

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○横手橋
 川口市東川口
 古くは、かちどき橋・カチバシ。


○さらに下流には、藤久橋
 川口市戸塚鋏町
 古くは「くずれ橋」、土橋だった。

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☆付近の地名
  安行吉岡(アンギヨウヨシオカ)・安行吉蔵(アンギヨウキチゾウ)・安行慈林(アンギヨウジリン)・安行出羽(アンギヨウデワ)・安行小山(アンギヨウコヤマ)・安行西立野(アンギヨウニシタテノ)・安行藤八(アンギヨウトウハチ)・安行北谷(アンギヨウキタヤ)・久左衛門新田(キユウザエモンシンデン)・源左衛門新田(ゲンザエモンシンデン)・戸塚境町(トヅカサカイチヨウ)・戸塚鋏町(トヅカハサミチヨウ)・行衛(ギヨエ)・差間(サシマ)・芝樋ノ爪(シバヒノツメ)・新堀(ニイホリ)・榛松(ハエマツ)・神戸(ゴウド)・西立野(ニシタテノ)・長蔵(チヨウゾウ)・長蔵新田(チヨウゾウシンデン)・藤兵衛新田(トウベエシンデン)・道合(ミチアイ)・八幡木(ハチマンギ)・本蓮(ホンバス)・木曽呂(キゾロ)・柳崎(ヤナギサキ)


☆天狗の鼻
 (現川口市東川口・さいたま市岩槻区釣上新田)
 綾瀬川が狭まり蛇行するので溢れた川水が池となっており、カッパが出るといわれていた。 その後埋め立てられた。


☆伝右川・伝右ヱ門川
 川口市赤山他
 関東郡代伊奈忠治が、船津伝右ヱ門に川の掘り割りを命じ、野田四軒家から南へ掘り出し。寛永五年完成した。 右ヱ門は自分の土地を売り・私費を投じたため、郡代より山林を与えられ・赤山に住みついた。
 さいたま市見沼区膝子の田園地帯に源を発し、ぼ綾瀬川に並行して流れ、東京都足立区花畑で毛長川とともに綾瀬川に合流する。  


☆戸塚城・竜が山城
 川口市戸塚南
 忍城家臣小宮山弾正介忠孝が築いたといわれる。 落城の落武者・小頭の小船達が住みついたのが藤兵ヱ新田。

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☆小宮山氏壘跡(戸塚城跡)
 天正年中成田氏の旗下小宮山弾正介忠孝といへる人の塁跡にて、段別一町余、龍賀山と称し今は御林地となれり、こゝほ大門宿より地続の高場にして、松杉繁茂し地形は乾より巽へはり出て、西北に廻り十二の曲輪とおばしき空堀跡今も猶残れり、本丸の跡と思はるゝ所は又一段の高きを加へり、そこより東南の方を望めば近くは、許多の水田うち開けて、遠くは綾瀬川を越て、越ヶ谷の宿駅まで一里に余れる所を眼下に見やり、筑波山をも手にとるばかりのさま、ことにすぐれたる眺望なり、其図左にあらはす、按に前に云忠孝は成田家分限帳普代の士の内に、小宮山弾正介忠孝二百貫文の地を領せしよし見えたり、此所その領地の内なるべし


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