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豊島清光メモ [さいたま]

Kitaku_toshima01

○豊島清光座像
 オリジナルは清光寺(東京都北区豊島7-31-7、03-3914-7794)

 豊島清元(清光)は平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。 武蔵国豊島郡を領有した豊島氏。 代々、源氏の家人になり、前九年の役や後三年の役で源義家に保元の乱で源義朝の配下で参陣。 父は豊島康家。

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 清光寺は、平安時代末期から鎌倉時代初期、豊島郡を中心に活躍した豪族豊島康家・清光が開基した寺院と伝えられ、ここには、清光の坐像が安置されています。 治承4年4月、源頼朝は石橋山の合戦に敗れて安房に逃れ、ここで軍勢を建て直して上総・下総・武蔵を経て鎌倉に至り、鎌倉幕府を樹立しましたが、このとき清光は子の葛西清重と共に源頼朝の軍に積極的に参陣し、鎌倉幕府の御家人として重用されるにいたりました。

 清光の伝記は、没年をふくめて詳らかでない点が多いのですが、嫁ぎ先での不幸をはかなんで荒川に身を投げた清光の姫および姫に殉じた侍女達の悲話の伝承「六阿弥陀縁起」・荒川で水死した子息を供養するために豊島の地に造立したという「豊島七仏」伝説が比較的広く知られています。
 像の高さは47.5cm、材質は檜材を使った寄木造りで、眼には水晶製の玉眼がはめられています。像の姿は、剃髪して身に衣と袈裟をつけた合掌姿の坐像です。三角襟といって襟の高さが頭頂にまでおよぶ襟をつけていますが、これは僧綱襟ともいって僧侶としての高い位を示しています。
 製作時期は、体内の墨書によれば寛保二年十月十六日、清光寺釈迦堂の祐貞という僧侶が願主となり、壇家で鹿浜新田(足立区新田3丁目)の長谷川弥右衛門が施主となって造立したことがわかります。
 木造豊島清光坐像は、江戸時代に製作されたものではありますが、豊島清光という人物を偲ばせる現在の唯一の肖像であり、清光をめぐる伝承や縁起を考えるうえからも貴重な文化財といえます。


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