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渋川伝説(2) [ぐんま]

Sourinji11

○千手姫(榛東村柳沢寺)
 千手姫は京の都に憧れ病となった。 京に上った夫田烈太夫信保が見たのは「散りもせず咲きおくれたる花もなし 今日をさかりりの庭桜かな」と詠み消えた千手姫似の女であった。 そのころ桃井の郷では、千手姫が他界していた。

○赤いお椀で鰻料理を出したら不幸が続いたのが地名「赤椀田」。

横線540透明

○雙林寺の七不思議
 ・開山堂の一本の拍子木、悪いことが起こりそうになると鳴る。
 ・月江和尚が持っていた数珠が大木となったのが「開山のつなぎカヤ」。 その実は針で通したような穴が開いている。
 ・竜神が湧き出させたのが「竜神水(蛇頭水)」、人の多少により湧出量が変わるので「人増せば水増す」といわれる。
 ・山門に彫られた「山門小僧と鶴」、左甚五郎作といわれる。 夜毎現れた山門小僧と鶴、村人達が現れた山門小僧の片腕を落とし・鶴を撃ったので、彫刻にその跡が残った。
 ・千本カシ(柏の木)、伐ると住職が死ぬ。
 ・鏡の井戸、覗いて自分の顔が映らないと死ぬ。
 ・薩摩守忠度が挿した桜の鞭が根付いたのが「忠度桜」。
  ※雙林寺の涅槃図には猫が描かれているらしい。
  ※雙林寺裏山に祭られている道了さまは、天狗といわれる。

○「朝日さす有馬の庄のその上に ありなし塚のその下に 黄金千杯 朱が千杯」と詠われた財宝が埋まっているらしい。 
※財宝を手に入れたという伝説もある。
※柳沢寺の住職が金九升五合埋めた、との説もある。

○毎夜、一人暮らしのおばあさんの家に話相手に来たのが「五輪さま」。

○寛保年間、大洪水の時、数千の霊火が現れ水流を止めたのが「弁天の森」。

○早尾神社にあるのが天狗の足跡、小さいが足跡に子供の足を乗せると足が腐る。

○湯上村にあった湯前薬師、「おでんばあさん」が熱心に信仰したので「おでん薬師」。

○水沢寺が兵火のおり、僧が千巻のお経を背負って逃れたのが「千巻窪」、後に「千が窪」。

○行幸田では温泉が湧き出ていたのが「湯上村」の起こり、「行幸田鉱泉」・「モッカの湯」ともよばれた。

○武田信玄が白井城攻めのおり、馬が踏み抜いてしまったのが「信玄橋」、石橋に替えて「駒形社(場頭尊)」を建てた。

○日陰に困った村人達が旅僧に頼み込んだところ、少しずつ日が当たるようになった。 ので「ひるめえ坂」に「大日様」を祭った。
※「大日影」なる地名もある。

○十社様を祭る沓石を掘っていたところ、転がりだした石を止めたのが天狗。 それが「天狗の沓石」。(かわすくね神社)

○無実の罪で投獄された人を助け出したのはキツネ、それが「奥泉稲荷」別名「盗人稲荷」。

○湯上村の娘「つばき」が越後男と恋に落ち、また会える時を待ち続けて恋死してしまった。 湯上村に戻った越後男は、悲しみ道沿いに故郷の椿の種を蒔いたのが大きくなり「椿小路」。 しかしながら、椿の木は長くは実らなかった。

○焼き殺された高原地・高元寺の住職が、白蛇となり復讐に来たのを慰めたのが「二位寺山」。

○武田信玄に破れた白井勢(登坂隼人)が潜んでいたのが上之原「くぞの穴蔵」、葛藤でおおわれていた。

○天明の大飢饉を吹っ飛ばそうと始めたのが「火祭り」、火難・水難・疫病退治・蚕や作物の豊作を願った。

○「阿久津に悪い病気が流行らない」のは毎日地蔵廻りをしたから。

○諏訪の森が吾妻川の洪水で流されたとき、流されてきた一本の松が根付いたが幹・枝とも吾妻の方向を向いていたので「諏訪望郷の松」。

○弘法大師が「お袋山」に登り、杖で地を突いて出てきたのが「乳池」。 飲むと乳が出るといわれる。 
※乳色の水らしい。

○浅間山焼けで流されながらも、上川島へ戻った道陸神。 戻るさいは、担ぎやすいように、小さく・軽くなったといわれる。  利根川下流に流されたのが、すくね神社の御神体、夜になると光輝いていた。 これを一時保管したのが「居宿祢」、訛って「イシグネ」。

○都の公家様が、兜を脱ぎ・牛の鞍を取り、牛に草を食べさせたのが「牛島」、「かぶと石」もある。 当時は、川島・牛島・乳母島・箱島・寄島が領土だったので、まとめて「五居が島」。

○毎夜オオカミが吠えるので、十二様にお願いしたところオオカミがいなくなったのが「富貴原の茶よび」。 
※富貴原では、十日夜の餅つきで誤って子供をついてしまったので、九日に餅つきする。

○祖母島には、あずきとぎ婆がいた。 小野上村にも、小豆あらいがいた。

○日本武尊命が東征のおり、上妻姫を娶り生まれた子と母君が住んでいた。 その母君の墓が「祖母塚」、その地が「祖母島」。
※子持神社でお産した話もある。

○榛名湖の山津波で流された人馬を弔ったのが「長者久保」、泉は白く濁っているので「長者の米のとぎ水」、埋まってしまったが岩穴には「金の鞍」があったらしい。

○矢を作っていた所が、白井城内の「吹屋」。 白井城内の三日月堀では、たくさんのオヒキガエルが鳴いて騒ぐのを「カエル合戦」。 
※吹屋・源空寺は子育て祈願。(子育て玄宅)

○「宝手拭い」の話は、子持村北村。

○助けられたカッパが、恩返しに膳椀を貸してくれたのが「かまが渕」。

○子持神社が火事の時、子持様が女神になり乳飲み子を抱きしめて飛んだ跡が「女神の足跡」。 
※明治天皇の母英照皇太后が、子持神社に安産祈願したといわれる。

○上杉謙信が武田信玄に塩を送るのを止めたところ、武田方が川に毒を流したので、伊熊の村人たちは「毒水よけの不動尊」を祭ったといわれる。 
※伊熊には、眼の神様・穴不動もある。

○子持村「今夜の窪」は、姥捨て山だった。

○阿倍貞任の奥方を祭ったのが、上白井中組「御前神社」、流れ着いてところが「御前の渕」。

○暮沢・玉山神社の岩に刻まれたたくさんの仏様は、浅間山(せんげんやま)が崩れたときに避難してきた仏様。

○昔、綾戸の利根川は滝であったが、807年岩を堀砕いたので沼田湖が干し上がり、今の沼田となったともいわれる。

○文明年間、聖護院道興准后が名付けたのが「八木沢の清水」、大胡城主牧野様も愛飲した。

○793年、坂上田村眞麻呂が東国蝦夷征伐のため上野国にて兵1000名を募集したところ、応募した小野金膳が手柄を立てたので、この地を「小野の郷」。 「金膳大明神」が、大野子に五社・村上に二社ある。 
※小野金膳は恒武天皇の王子との説もある。

○坂上田村麻呂が東国征伐のおり、村上平太が城を築いたので、その地名「村上」。

○馬の尻尾の毛と交換に、カッパに一晩で造らせたのが「カッパの石垣」。

○藤原季長が、毎朝沢に出て塩で顔を洗ったので「塩川」。

○大久保わたご山では「キツネ火」が見られた、よくよく見たら「博打」だった。 
※グンマでは、「キツネの嫁入り」は良く見られた、「タヌキの婿入り」は聞いたことがない。

○吉岡漆原には器量良しの娘がいた。 ある若者が首吊りの真似をして結婚を迫ったところ、娘が一言「おゃ、首っかかりだね。 死にきれないようだから、トドメをさしてあげる」。 それ以来この地は「度胸原」。

○神様が天から降りてきて、袂の中から石を出してこの地を鎮めたのが「袂石」。 その後、だんだん大きくなった。
※常陸石那坂峠の石、毎日毎日伸びて天までとどこうというまさにそのとき、生かった静の明神が鉄の沓を履き・蹴飛ばしたのてせ二つに割れてしまった。(雷電石)

○吉岡・横塚には大入道が出た。 ある剣者が切り捨てたところ、それは石塔だった。 それ以来、石塔は立つことなく・すぐ倒れてしまうようになった。

○盲人のあんまが、金目当てに谷底に突き落とされたのが「座頭落とし」。

○船の形をしているので地名「船尾」、神地なので「不入」との説もある。

○阿久沢の主カッパ夫婦が伝授したのが「カッパの骨つぎ」、他にも外用秘薬を伝授した。

○榛東村の硯石、溜まった水で眼を洗うと眼病が治る。 イボにも有効。

○殿様用の米を積む倉があったのが「郷倉跡」。

○禁猟の鶴を撃ってしまったのが「鶴沢川」、寺山の毒キノコが生える。

○船尾山火災のおり、阿弥陀如来が飛んできたのが「念仏池」、水が絶えることがなかった。

○榛東村山子田のお堀は、桃井城跡。 殿様にやっとできた子供は神の子、成人すると水沢山に帰った。 そのとき形見に残した黒髪が「黒髪神社」、消えた地が「広馬場」。

○一夜の宿を求めた尼僧を殺したのが倉海戸「比丘田」、田を耕す者は祟られる。

○浅間山焼けのとき、唯一枯れなかったのが長岡の「庚申井戸」。 長岡の「オコリ山」は祟りの山、登ると不幸がある。 鎮めようと入定したのが「念仏動」。

○水の出る所がたくさんあったので「百々乃井」、後に「桃井」。  水がたくさんあったので「水沢」。 
※桃の木がたくさん生えた名勝池があったので「桃井」との説もある。

○双つ岳の所有権を巡り十三村で争いになったとき、お奉行様が二本の竹を投げて捜し当てた村の物とするとした。 村代表がひれ伏し・眼をつぶっているのに、こっそり盗み見ていた者がいた。 それは吉岡代表、竹を二本とも拾ってしまった。 
※二ツ岳麓は大昔は伊香保沼であったが大洪水で人や家を絵師流してしまったので、今の地に伊香保温泉を移したといわれる。

○富士山噴火で飛んできたのが桃泉の「とんび石」、一面カヤの原で鳥がとまる木さえなかったので、よく鳶がとまり鳴いていたそうな。

○家成の後妻を捨てたとされたのが、姥捨山・伯母捨山


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