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桐生伝説 [ぐんま]

Kiryu51

○徳川家康が、厩城主平岩親吉を介して、桐生領に絹旗二千四百十疋を発注した。 これが関ヶ原合戦で使われ、桐生は吉例の地となり、一切の賦役免除となった。

○永正十三年、桐生城主桐生重綱が愛馬浄土黒ともに死んだのが「浄土野」or「浄土谷戸」。

○行者が三宝荒神を背負って桐生新宿まで来ると、尊体は千貫の重さとなったので雷電原坊主山にお堂を建て祀った。 
※後の長福寺

○菱の領主細川内膳の愛馬小雀が、桐生領へ引き取られるのをいやがり自害したをで、小雀観世音としてまつった。

○正平二十五年る桐生三郎国綱が桐生見城(柄灼山城)を築いた。 その中にある御屋敷の竹藪は桐生旗絹の旗竿となった。

○淳仁天皇・天平宝字年間、官女・白滝姫が恋に落ち仁田山へ下り、里人に絹の織り方を教えた。 これが桐生織物の初めであり、機の神」の地である。

○天正七年、新田・由良国繁が深沢城攻めの戦死者百七十余人を埋めたのが、桐生塚(千人塚)。

○寛治年間、山田七朗平吉之が要害山に城を築き、その子孫筑後守則之が桐生国綱に滅ぼされたとき、その姫が家臣に背負われて城を脱出・滝を跳ね越えて逃げたので、「跳ね滝」。 
※渡良瀬川を鮎が跳ね越すとの説もある。

○要害山は眺望良く、文政年間桐生の左羽淡斎翁が「十山亭」を築いた。

○東光寺の薬師如来は眼病の神様、願掛けは100%治った。

○二の午稲荷大明神は、江戸王子の稲荷の分霊といわれる。

○牛に乗った御神体があったのが、須永・「牛天神」。

○乳の出がよくなるのが「乳仏観音(聖観音)」。

○愛宕の神様が夢枕に立ち「裏山の大石が欲しい」というので奉納したのが愛宕神社の「水鉢」、その他、参道敷石・石橋など作り、石を掘り出した跡は窪地になった。

○大男が赤城山に腰掛けた時の足跡が地名「足下」、足の間が地名「足中」。

○幼い娘を亡くした母親が手向けた椿一枝、念が通じて四季絶えることなく咲くのが広沢の「不断の椿」。

○広沢にあった「かき塚」の柿を食べると、塚の祟りで死ぬといわれていた。(柿塚明神)

○比呂佐和神社の御神木は、赤城山の柏の木だった。

○広沢・賀茂神社の「蛇の絵馬」は、悪鼠除けだった。(蚕関係者用) 絵馬には、普(ナミ)と正(ショウ)の2ランクあり、正は社前の砂封じ・効果大で家中に御眷属の蛇が多数現れるので注意。

○賀茂神社氏子心得
 ・鼠除け守護神は青大将の尾の切れたもの(賀茂様蛇)。
 ・白馬を飼ってはいけない。(村には白馬はいなかった)
 ・鍛冶屋と桶屋はダメ。(神様が音を嫌う)
 ・陸稲を作ってはいけない。

○ガチャ万:1950年特需景気となり、桐生織物では「ガチャンと織機を動かせば一万円金が入る」といわれた。


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