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館林・館林城(尾曳き城)伝説 [ぐんま]

Tatebayashi31

○赤井但馬守照康が助けた子狐の親白狐が城の地割りをして築いたのが「館林城・尾曳き城」。

○永禄六年の北条勢が攻め行ったとき、白狐が七千の軍馬に化けて援軍した。

(上州館林城図)

○天正十八年石田光成勢の攻撃には、堀に生えた葦が多数の城兵に姿を変え敵を後退させた。 そのときから、葦はみな方葉となった。

○正保年間の城主松平和泉守乗寿の元へ、江戸表から早馬が来た。 書状は「若君家綱公御疱瘡重体」。 城主は取るものも取りあえず・大慌てで江戸へ上ると、何事もなく平穏。 書状を老大臣に披見すると、それは白紙。 尾曳稲荷に参拝しない城主に、狐が白紙を送ったともいわれる。

○万治年間の城主松平平乗寿の家老水野仁右エ門が、眺めを遮るとして大袋山を伐採しようとした。 いざ木を伐り始めると、黒雲・大雨・大風となり、家老夫婦は引き裂かれ・神木を伐った者も死んだ。

○善導寺開山幡随院白未知上人のところに、つつじが崎の沼に住む竜が老爺に姿を変えて菩薩戒を願いに来た。 そのお礼が、「竜の井」。 
※女の姿に変えてやってきた竜を庭の井に封じ込めた、との説もある。

○応声寺に、ムジナが僧に姿を変えてやって来て、十念の授戒を受けて立ち去った。 そして再びやって来て六字の名号を書いた。

○平井城主上杉憲政の家臣大谷休泊は、植林・灌漑用水(休泊堀)・農耕に力を注ぎ、領民の信頼も厚かったので、つつじが崎公園に紀功碑がたった。

○源義経が奥州落ちの途中、根本に腰掛けて休んだ松が「判官松」。 渡良瀬川を渡れないでいたのを見た村人達が杉の木を伐って橋代わりにしたのが「杉の渡し」。

○村に不思議な悪いことが続きさびれたため、僧が像を彫り観音堂に祭ったのが「善長寺の十一面観世音」。

○山王山は、謀反を起こした毛呂因幡守秀氏を葬ったところ。

○磯原日向守正儀夫婦が沈んだのが、大島村磯が原「夫婦沼」、乳母が後を追ったのが「乳母が渕」。 
※夫婦については原因不明

○館林城主奥方「お辻の方」が城沼に身を投げたのを悲しんだ城主がつつじを植えたのが「つつじが岡」。 
※お辻→おつじ→つつじ、身を投げた原因については諸説ある。

○羽附・楠木神社(乃木神社)は、南朝の忠臣楠木正成の首を祭ったとされる。 
※首を護ってこの地まで来た近臣五人は土着し、後の石井・沢守・田部井・半田・小林の氏を称したとされる。(尾島町武蔵島・花見塚)

○赤生田村永明寺の番僧順体坊が掘ったとされるのが「順体坊が池」、どんなときでも水が枯れることはない。


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