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高崎伝説(2/3) [ぐんま]

Takasakishi

○1793年、岩鼻陣屋創設、現日本化薬地。

○1616年、下小鳥にて高崎藩検見あるもその厳しさに村人が役人を殺害。 藩主松平丹波守が激怒・出兵し、部落皆殺しにしたのが「首塚」。

○高崎はたばこの産地、「館たばこ」で有名だった。

○田嶋元七が蛇場見の谷川で水に石油気が含まれているのを見て、乗附山に石炭があるのを確信した。(1874年) 後にこの亜炭がも富岡製糸場・新町紡績所でも使われた。

○京ヶ島にある井戸が「七つ井戸」or「いろは井戸」。 弘法大師が掘ったといわれている。 
※実際は十余りの井戸がある。

○かつて高崎には高級住宅地として「官宅」なる地名があった。(赤坂町)

○高崎「連雀」は、道具の「連尺」の意だった。

○高高の公孫樹とバラ・県女の椎・南八幡小の楠・県女中央小の松・北校の月桂樹・南校の稲・北小の弁天榎。

○倉賀野・常夜灯の脇にあるのが「えんま堂」。

○下和田にあるのが「胡桃塚」。

○板鼻・倉賀野には参勤交代の宿屋が各六十軒ほど(町の2~3割)あり、各宿間の休憩所が「茶屋本陣」。 
※高崎は城下なので、名目上本陣はない。

○高崎駅は開設時新町にあった。(一日四本)

○佐野の船橋
 朝日長者の娘那美と夕日長者の息子小治郎が恋に落ち毎夜舟橋を渡つての逢引であった。 これを知った親が逢引を妨げようと何枚かの橋板を外したが、深い夜に二人とも落ちて川に流された。
「かみつけの佐野のふなはしとりはなち 親はさくれどわはさかるがへ」

○鉢の木(常世神社)
 雪の夜、最明寺時頼が宿を求めた家は源左衛門常世であった。 常世は貧しくあったが、精一杯もてなし・秘蔵の鉢の木(梅松桜)をも薪として暖をとらせた。 欲春、鎌倉に召集された常世が見たのは、あの北条時頼だった。 そして常世は、加賀の梅田・越中の桜井・上野の松枝(松井田)の三荘を賜った。

○目青竹(金明竹)
 碓氷川辺で老夫婦が香煎を食べているところに老人が立ち寄り、稲荷社の森に竹の杖を放った。 この竹杖が根付いて「目青竹」となり、創建されたのが上野国一社八幡宮(857年鎮座)、老夫婦を祭ったのが高鼻の祖父祖母神祠。 そして、八幡宮には香煎を供える。
※放ったのは、矢とも旗竿ともいわれる。
※義家が地に突いた矢が根付いた「目白竹」というのもある。(八幡・八幡宮)

○和田の三石
 和田の立石・上和田の円石・下和田の方石、のこと。  立石は弘法大師が腰掛けて休んだ「大師石」ともいわれ、また「おこり石」ともいわれる。
※「おこり」はマラリアの意、病を治す石でもある。  1730年頃善念寺住僧が円石を二面に切らせ、門前橋と成田山境内に置いた。 名石を踏んだので祟りがあり、門前橋は転々としたらしい。 方石は「化石」ともいわれ、源頼朝の馬が怪物と思い蹴ったので「馬蹴石」ともいわれる。

○永泉寺の裏藪には古ムジナが住んでいた。 高崎線の列車にぶつかった話がある。

○馬庭念流の祖・樋口十郎右衛門定次は村上天流とはたし合いをすることになり、夢のお告げで枇杷の木で木刀を作ったところ、その木刀で八幡宮の巨石を真っ二つ割った。(太刀割石)

○小八木町には片葉の芦が数カ所あり、その一つが「片葉の森の霊光堂」。 板鼻にも「鏡が池の片葉ヨシ」がある。 
※片葉になるのはからっ風の影響、との説もある。

○人食い蜘蛛がいたのが「蜘蛛の巣池」。

○歌人・藤原家隆が烏川を渡ろうとたが舟がないので、船形をした石に乗ったところ動きだし対岸に渡ることができたので「歌の橋」。 
※地名「乗附」は石舟を乗りつけたの意、ただしアイヌ語系。

○「恋しくば尋ね来てみよ小塙の 稲荷の森のうらみ葛の葉」は、婚を結んだ女狐が正体を見られて身を隠してしまった話。 
※上小塙・稲荷神社(おはつ稲荷)。

○八幡太郎源ノ義家が南大類・柳原まで来たとき馬が蹄をいためたので、清水観音を遙拝したところ馬頭観音が現れ馬も元気になった。(柳原観音)
※一時は草競馬が行われた地でもある。

○切干塚・首塚(高崎小鳥町)
 元和三年一月四日、高崎藩主松平丹波守康長家来による大虐殺が行われ村はほぼ全滅した。 前年、上郷代官・横瀬郷太夫の横暴にたまりかねた村人が郷太夫を殺害した仕返しであった。

○蜘蛛が渕伝説
 高崎中尾の蜘蛛巣池・下仁田中小坂の蜘蛛が渕・みなかみ藤原のヒノキヨド、などクモ伝説がある。


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