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グンマの昔:綾戸穴道 [ぐんま]

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○綾戸穴道
 沼田街道(東通り)は参勤交代路だったので「とのさまみち」とよばれた。 この道は標高が高く上り下りが多く・積雪量も多かった。  このため西側の脇道が利用されたが、只一箇所「七曲り・十八坂(綾戸渓谷)」なる難所があった。
 江戸時代も末、人馬の往来が盛んになるとともに難所を避けて児子岩を切り開いて道をつくろうという動きがあったが、それならいっそ「トンネルを造ろう」という人が現れた。

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左:綾戸隧道、右:綾戸穴道。(1929年)

 子持村から渋川・高崎方面へ抜けれるよう、金剛院住職江舟と村役人後藤門右衛門らにより「綾戸道切開計画」が立てられた。   1842年11月工事開始、並行する十八坂が廃れると岩本村新田組の反対あり、 1844年4月児子岩打ち抜き開始(玄翁と鉄矢による手作業)、費用は全額寄付金でまかなったため工事遅々。
 1846年3月綾戸穴道貫通、その後中岩切開し橋を設けて1853年10月人間一人がやっと通れるほどのトンネル完成(上州初のトンネル)。 この時の長さは十五間(約27.3m)あったが、大きさは二尺四方(60cm)だった。
 1863年工事再開、1864年切開工事完了、高さ・幅とも七尺(2m)となった。 完成後は通行料をとったらしい。
 その後1902年には綾戸隧道ができた。

※ある木
 岩に支えをとしかけて造った仮設備(桟橋みたいなもの)

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○綾戸渓谷
 二十数万年前、赤城火山が大崩壊し大量の土石が流れ下り・利根川をせき止め・両側を高い岩壁で挟まれた利根川がますます深さを増したといわれる。

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