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富士見村伝説(勢多郡富士見村、現前橋市) [ぐんま]

Akagi

○大沼の主は大きな緋鯉、五十年毎に人身御供が必要。

○覚満法師が、法華経力をもって赤城沼に入水した赤城姫を竜神の座に上げた。(覚満淵)

○唐人が船でやってきたがもう上流に行かれないので引き返したのが、石井の船返し。 一休みしたところが、漆窪の唐人貝戸。

○弘法大師が鉈で薬師如来を彫ったのが穴薬師。

○小沢・金剛寺が火事になったとき、不動様が庭の木に登って避難したが、魂は石井に行ってしまい抜け殻だった。

○漆窪の薬師様を、馬に乗ったまま通ると落馬し・帽子をかぶったまま通ると飛ばされた。

○戦国時代、粕川で切った首を洗ったら地蔵の首であった。 そこで「首荒」となった。(首切り地蔵)

○米の清水をキツネが京都へ献上したのが「お茶の水」。

○米野の大胡通りは昼でも暗かったので、小暮を出た旅人が深山と間違え山中で日が暮れるのをさけるために引き返したのが、「暗闇坂」。

○弘法大師が赤城山霊場を開こうと登る途中で日が暮れたので、「日暮の里」といったのがやがて「小暮」になった。

○弘法大師が馬に乗るときについた足跡が「足跡石」。

○イボは「いぼ石」にくっつけると治る。

○弘法大師が杖をついた所が穴となったのが、赤城・白川。

○十二山から来た天狗が止まったのが、天狗の足跡石「田島の大石」。 馬の足跡もある。 遊ぶ子供が落ちても怪我しない。

○干ばつの時、立臼で堰を止めたので「立臼堰」。

○前橋城主酒井雅楽頭が植えた松が「田島の大松」、田島・時沢・石井、に各一本植えた。

○百駄城主は奈良大和守帯刀、1580年落城。

○時沢・不動様(鳥仏師昨)は、百駄城とともに燃え、灰は一本椿橋から捨てられた。 それからは、橋を通ると落馬する人が続出したので、橋下を掘り返したら「不動尊像」がでてきたので時沢・不動堂に納めた。

○原之郷には弘法大師が杖で湧きだし温泉があったが、地元民が病人が集まるのを嫌い、損馬骨を投げ込み温泉を止めた。

○富士・浅間神社を勧請祈願したら子供ができたので、「お富士様」とよばれ安産祈願となった。(富士塚)

○十一屋酒屋から上郷へ酒樽を運んだのが「樽街道」。

○引田・諸田家では水に困っていたので、米を研がずに炊いて食べた。 それ以来、諸田家の元旦は米を研がずに食べるようになった。(諸田家の米糠正月)

○越後から迦葉山にお籠もり来た人が留守の間に継子が殺されるのを知った中峰さんが、越後に走り継子を助けた。 それ以来、越後から迦葉山にお参りする人が増えた。

○山口・石井・上田島・横室沢口、ではクツワ虫を捕って来ても翌晩は鳴かない。 それは、神様・仏様はクツワ虫が嫌いだから。 ※キリギリスのこと。 グンマではキリギリスは神々から嫌われている。  

○横室・十二山の石は前橋城築城に使われた。 墓石も一緒に供出したので、地元では「城は永くはもたない」との噂だった。

○法華沢の瀬音は日によって音が変わったので、「法華経を唱えているようだ」いわれた。

○横室の室(古墳)は奥深く、鶏を入れてみたら越後に出て鳴いた。 初室は、大友皇子が住んだところ。

○細井田では狐火がみられた。

○米野・大聖寺のやくざ坊主は、大火の中でも読経を続けた。 いよいよというとき風向きが変わり寺は残った。 それ以来、尊敬されるようになった。

○田島村太兵衛は、楡沢領と前橋藩の境界争いを見越し、要所要所にこっそり炭を埋めた。 のちに、公儀に「伝説では境界に炭が埋められている」と訴えた。 これが、富士見村と他村の境となった。

○原之郷の角田千造は、柔術に優れ・大力持ちだった。

○大沼の主は赤牛とする伝説もある(赤城詣)。 その名残が牛岩峠。


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