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粕川村伝説(勢多郡粕川村、現前橋市) [ぐんま]

Otoginomori

○一休和尚が作った歌の碑があるのが「つつじが峰」。

○源平合戦で源氏本陣に建立されたのが新家・薬師様(源氏薬師)、敗れた平氏の首を埋めたのが首切り薬師。

○1350年頃、女渕城主が軍場訓練場としたのが「桜の馬場」、管理者は家臣桜氏だったので、桜氏の家が桜屋敷。

○享保時代、ダイコウ寺の沼が河原となり・粕川の流れが変わった。 申の年だったので、「申年の大水」。

○稲は瑞穂国からキツネがくわえてきた。

○上野国司高野辺家成りの後妻が、先妻の娘二人を沈めたのが「増田ケ渕」。 その後、夜な夜な女の悲鳴が聞こえるようになったので「女渕」村となった。

○上野権大掾南渕朝臣秋郷が築いたの女渕城。 人柄温厚で村人から慕われたので、「御南渕様」と敬われた。 御南渕→オンナブチ→女渕、となった。

○牧野康成が大胡城に国替えとなったが、娘の鶴姫は療養のため込皆戸御殿に泊めおかれた。 一人残った鶴姫を慰めたのが、駿河の能人形・三番痩叟の舞だった。

○滝沢・片手不動尊は右手に降魔の剣を持っていたが、上杉謙信がお守りにと長船の名刀で切り落とされた。 その後、右腕は鹿島神社に返された。 

○武田勝頼が膳城進軍のおり、馬をとめたのが「駒止め池」、手にした梅の枝を池の縁に刺して立ち去ったのが後に樹となり「逆さ梅」。

○近戸神社祭礼では、親神の祭りが終わると粕川に濁り酒を流す、これを合図に下流では直会が始まる。 濁り酒で川の水が白く濁るので「粕川」。

○近戸神社の「登竜・降竜」を池に投げ込んで踏むと雨が降る。 雨乞グッズ。

○赤堀道元の娘が赤城山へ行く途中馬が死んでしまったので、馬の鞍を掛けたのが「鞍掛石」。

○百足は赤城山の一族、殺してはいけない。 「ムカデ、ムカデ赤城へ行け!」と唱えればよい。

○武田勝頼軍はグンマの暑さに耐えられず全員裸で膳城を攻めたが失敗、代わって真田昌幸軍が闇に紛れて水門から攻めたら成功した。 これが「武田勝頼の裸攻め」。

○武田軍が中村城を攻めたときに戦ったのが城主の娘早苗姫。 その墓が「中村城・姫塚」。

○人を葬る所が「室」、粕川上流小沼沢が水田を潤す「沢」、合わせて「室沢」。

○おかま様は、小授・安産の神様。 願掛けは小石、願果たしは洗米。

○弘法大師が中国から麦の穂を持ち帰るさい、犬に吠えられたので金縛りの術をかけた。 が、解くのを忘れてしまったので、十月戌の日には麦を蒔かないことにした。

○半夏に田植えをすると、半夏様がねたむのでその家は夫婦別れる。

○赤城の神には、月田の里と深津之里に二人の娘(近戸明神)がいた。 なかなか会えないので、毎年八朔の日に川に粕を流して無事の合図とした。 これが「粕川」。 

○赤城明神の妹姫・渕名姫の腰元たちが投げ落とされたのが「不動大滝」。

○昔の姥捨山、今は「お伽の森」。

○八朔
 八月一日(旧暦)を「ショウガの節句・タノモの節句」といい、新嫁が生姜を持って里帰りする。
※グンマには「八月一日」を名字とする家が多い。 読みは、ほずみ・はっさく・やぶみ・ほづみ、など。


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