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前橋伝説(2) [ぐんま]

Maebashijyou2

○茶店で売っていたはぜ棒が六文だったので、「六文棒」と言う地名になった。

○一揆の首謀者として処刑された駒形茂衛は、広瀬川畔の隠し墓に葬られた。(駒形茂衛地蔵)

○悪疫が流行ったとき、弘法大師が屶で石を刻んだのが屶切薬師。

○利根川を渡るのに着物を腰までまくったので「小島田」。(コシマデ→コジマタ)

○上杉方と武田方が戦ったときに埋められた小判があるらしい。(朝日夕日)

○湯之気曲輪には温泉があったが、屍馬を投げ入れたので水になった。

○源頼朝が鞍を掛けたのが「鞍掛け松」。

○端気川・利根川合流にあった火の滝の主は緋鯉。

○下大島・芦原堰には貸し椀伝説がある。

○下新田の稲荷には額に黒い十字の模様があるので、黒十狐。

○西片貝の虚空蔵仏は、人が拝むときは正面を向き・人が去ると下細井方面に向きを変えた。

○屶切り薬師が流行って、草履が一日に千足売れたので「千足橋」。

○細野天神様の扉は、竜巻で利根郡追貝まで飛んでいった。(現扉天神)

○比丘尼台では、広瀬川の淵・竜宮から手に入れた人魚の肉を食べた人が800歳まで生きた。(尼往生という)

○利根川氾濫を見た元斎がつくった排水堰のが元斎堰、地名も「せきね(関根)」。

○勝山城御殿女中「清」が、女中仲間の恨みをかって殺されたのが「清ガ淵」。

○豊城入彦命が住んでいた屋敷が、玉屋敷・後に大屋敷。

○堰をつくったら五千石の米が穫れたので五千石堰。

○光仁天皇時代、群馬郡司太郎満胤が兄たちに殺されたのが蛇塚の岩屋。 殺されて三年後、大蛇によみがえって仇を果たしたが、恐れた天皇は毎年人身御供を求めた。

○蝦夷退治の田道が総社に葬られた後、蝦夷が仕返しに来たとき蛇穴山から大蛇が現れ毒気を吹いて追い払った。(現蛇穴古墳・弁天山)

○日本武尊が弟橘姫の冥福祈願したのが橘山。

○流れ着いた男根形の木棒を祭ったのが福森様。

○水面に梅の花の形で湧き出たので「梅の井」、前橋城御殿の産湯にもつかわれた。

○豊臣秀吉朝鮮出兵のおり加藤清正が熊本に植えた柳を分けてもらったのが「文函の柳」、川越城から文函に収めて送られてきた。

○鶴光路・善光寺の六地蔵灯籠は、化けたので槍で突かれた。

○徳丸・宝乗寺の不動は、公田の不動と喧嘩して手を切り取られたので「片手不動」となった。

○天皇を追う魔をなす鳥を討ち取ったので「鳥取町」となった。

○山伏石に触れると病気になる。 少将塚に触れると祟りがある。

○戦いで川が血に染まったので「染谷川」。

○鳥羽の地蔵をなでると子ができる。

○「権左の土手」では、権左以降多くの人が溺死した。

○昔、人を磔にしたので「磔田」。

○夜泣きの子供は、夜泣き観音にお願いする。 願果しは「金の鳥居」。

○梅の木を植えたら三年後に桜の花が咲いたので、梅化桜天神。

○昔、土地測量をごまかして打ち首になったのが西片貝「首荒の池」。

○越後の毒消し「おとぼ」を生き埋めにしたのが「おとぼ沼」。 呼ぶと沼が返事をした。

○悪病が流行った時、満開上人(マンケイ様)が生きながら墓に入り祈願したのが「満開塚」。 虫歯の神様、前を通るときは下駄を脱ぎ裸足で。

○源頼朝の愛馬磨墨の墓・宝篋印塔があるのが西善・祝昌寺。

○726年3月朝日窪から金色の光が輝いた。 それは一寸八分の黄金像だった。 さらには807年3月15日、立ち寄った弘法大師が十一面観音を彫り・その中に黄金像を納めた。(現日輪寺)。

○二之宮(方葉葭)・駒形鏡田・駒形清内・下増田八坂樋・上増田、などで「方葉のヨシ」が発見された。

○利根川が溢れた時、十三仏を岸に祭り川の流れを変えた。(新土塚の文殊)

○源頼朝軍がヌルデの棒で戦ったので「ヌデジマ(橳島)」。

○木曽義仲勢が逃げるさい、背負っている物を聞かれたので「箱だ、箱だ」、それで「箱田町」となった。(箱の中は木曽義仲の骨ともいわれる)

○東片貝の虚空様庭の杉の木の穴に溜まる水は目の病に効く。

○生きながら・鉦を叩き・埋められたのが和尚塚。 婆さんだったのでオショウヅカバアサンとも。

○細井の田んぼは、狐火の名所で賑わった。

○日光の坊さんが金の仏像を持って逃げてきて首を切られたのが「オッキリ川」。(現寺沢川)

○屋敷奉公の女中が皿を割って生き埋めにされた供養が十六本松(堀之下・小円寺)。

○相愛の男女が本町・縁切り坂を通ると縁が切れる。 無縁所は罪人断罪の地。

○医王山無量寺は薬師堂を新たにつくり朝日薬師としたところ信仰が増えた。 例祭には決まって雨が降るので、参拝者は芋畑の葉を傘代わりにしたので「芋ッ葉薬師」とよばれた。

○増田には人を化かすキツネがいた。 そしては蓮花院の坊さんが狐を懲らしめ、狐から血判証文をとった。

○前橋城家老の娘がずっと一人で猫ばかり相手にしていた。 古猫となったので家臣が猫を切り殺したところ、娘も病で死んでしまった。 哀れに思った村人が芭蕉に猫の句を頼み「猫の碑」をたてた。

○天狗が花見に来て啼いたのが三俣・天狗桜。

○日本武尊が「この流れ岸に金砂あり」と言ったのが藤沢川に架かる黄金橋。

○庵室の僧が身投げしたのが「坊主田」。

○日本武尊が石に腰掛けて弟橘姫を想ったのが小石神社。(恋しいが訛った) 橘山から転々として現敷島公園。

○小野小町が南奥平・薬師如来に願掛けするさい、人目を避けるため霧に紛れて朝夕参拝したので、「顔隠れの霧」

○小野道風が勅使として来たとき、小川が渡れなかったので刈り取った稲束を積み重ねて橋にしたのが「稲の懸橋 or 勅使橋」。

○阿弥陀寺の化粧薬師・縁切り薬師は大蛇に捧げた人身御供の娘の霊を慰めた。 願掛け・願果しに、白粉・口紅が塗られたので「化粧薬師」。 娘だったので夫婦に嫉妬深く、婚礼は薬師前を通ってはいけない。

○小石神社の赤石は、元は小石だったのがいつの間にか大きくなった。

○昔、力丸橋は蛇窪橋とよばれ、大蛇がいた。

○化け薬師様は、イタズラが過ぎて上半分を切られてしまったので上半身が無い。

○龍蔵寺・厄除大師は時々自ら向きを変えるらしい。

○源義経が平泉に落ちのびるさい、お供を六人残したので「六供町」。 または、小幡城主伊勢守忠利が城を捨て六人の家来を連れてこの地に来たので「六供町」。 さらには、木幡城主熊出将監が六つの寺を建てたので「六句村」が訛った。

○浅間焼けで利根川に流れ込んだ土石を防ぐため、六供の人々が総出で土手を築いたのが「掴み取りの土手」。 手間賃を現金掴み取りで支払った。 ※現金掴み取りは費用を抑える手法、現金の入った箱や樽には籾殻などもタップリ入っている。

○昔は五軒しかなかったので五軒町、いつしか後家町に変わった。

○水沢観音六角堂・清水の回り舞台・伏見稲荷・前箱田稲荷・大徳寺山門など造ったのが名工八兵衛。 大徳寺の山門が嵐で傾いた時に修理にきた八兵衛が一言「八兵衛がきたぞ!」  これを聞いた山門は自ら真っ直ぐになった。

○木福様は女性の神様、できものに効く。 お祭りには、福森様(男根石)を祀る。

○囲碁好き村人が鍋割山で仙人相手に囲碁に夢中になり村に戻ったら五世代後になっていたので「五代村」。 相手は、五代窪に住む碁打ち仙人だったらしい。 将棋好きだったとの説もある。

○力士「佐渡が岳」が巡業先で地元強豪に負けそうになったとき、一匹の狐が相手の足をくすぐったので佐渡が岳が勝った。 これが「白狐の助太刀」。

○諏訪町に来た弘法大師が桃を分けてもらおうとしたら、町北側ではみすぼらしさに断られ・町南側では喜んで分けてくれた。 それからは、町の南側だけで桃が穫れるようになった。 これが「諏訪町桃」。


☆婚礼の引出もの
 群馬郡車郷村大字白川・総社町・横野村・上川淵村・下川淵村などでは大根と人参、吾妻郡高山村中山宿では木製。

☆勢多郡桂萱村西片貝滝沢寺の石佛観音

☆上郊村大圓寺・石佛如意輪観音

☆多野郡阿久津・二十三夜さま

☆新田郡九合村・天神山古墳(前方後円墳)と女体山古墳(帆立貝式古墳)

☆引出物
 平安時代貴族の宴席、お開きの後に馬を引き出して送ったといわれる。 
※婚礼の宴席でのハマグリは汁だけ飲み・身は食べなかったらしい


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