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グンマの昔:天明の浅間焼け [ぐんま]

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○嬬恋村鎌原(かんばら)
 1783年7月8日10時、日本有史最大規模の浅間山噴火、全村火砕流に流され、残ったのは観音堂と秋葉神社を含めて四町歩(東京ドームより狭い)。  477人が死亡・観音堂に逃げた93人が助かった。 残った村人は全員平等の基に家族を構成して新村建設し、鎌原村がよみがえった。 そしては「八日の念仏」として念仏和讃が唱えられ、毎年鎌原観音堂で供養際が行われている。(毎月7日と16日にも行われている)
※大笹村黒岩長左衛門・干股村千川小兵衛・大戸村加部安左栄門など、多くの富裕層が私財を投じて被災者の救援にあたった。
※日本風俗図誌(ティツィング著)

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○観音堂 
※連日の噴火にたまりかねた村人たちは、寺・神社・観音堂など各所に集まり「お山」鎮静を祈願していた。 そのうち高台にあった観音堂で祈願していた村人だけが助かった、との説もある。

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○観音堂石段下の写真は、母を背負った娘とされる

※この二人については、「観音堂に逃げ込もうとした」・「(村が土砂に飲み込まれるのを目の当たりにして)観音堂から逃げ出そうとした」、の二説ある。

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○浅間山北側斜面
 北麓側から流れ出した溶岩流跡が今なお残る。

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○火砕流と溶岩流

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 1783年4月4日に噴火がはじまった浅間山は噴火を繰り返し、7月8日10時頃大噴火とともに北麓側から溶岩流が流れ出し、南へは噴煙・砂礫が関東一円を覆った。 最初は火砕流(一部土石流)であったが、やがて溶岩流に変わり「鬼押出し」となった。 火砕流は60km/h以上(一説では100km/h)で鎌原村を飲み込み・吾妻川になだれこんだ。 観音堂に逃げ上がって助かった93人(総人口570人)は、新しく家族を構成して村を再建した。
 一方、吾妻川へなだれ込んだ火砕流は、せきとめられては決壊を繰り返したのでより大きな被害を与え、江戸湾までも押し流した。

【被害状況】
○鎌原村
 噴き上げられた大岩塊・火山弾が落下し、付近の土石を巻き込み・北斜面を削りながら土石流(鎌原熱泥流)となり60km/h以上厚さ3~10mで村を埋め尽くし、全家屋が流失した。
※水気のない・温度の低い土石が、なだれ状に一気に流れ下ったらしい。

○新井村(与喜屋)
 吾妻川から逆流した泥流は、標高650mの地点で厚さ35mに達した。

○中村:80km下流地点
 噴火から2時間半後、泥水が洪水となり地面を覆い、さらに泥流がゆっくりと3~4mの厚さで村の東側を埋めた。
※吾妻川の泥流は40km/h以上で渋川に達し、利根川で速度をゆるめ、噴火4時間後の午後2時頃には玉村に達した。

【上信一揆】
 噴火から着の身着のままで逃げ延びた人々は、何処でも天明の飢饉のおり受け入れられず、凶作・売り惜しみもあり、食べ物を求めて各所で一揆となった。 そしては千曲川を越え野沢まで及んだとされる。  

【天明の飢饉】
 天明二年頃にはじまった凶作は、浅間山噴火による火山灰・泥流・降灰・日照不足などにより、群馬県内は西部を中心に飢餓状態となった。 このため餓死(疫病も流行った)するものも多く、食料の売り惜しみ・値上げもあり、米騒動・一揆へと及んだ。
※浅間山は噴火というよりは爆発だったため、噴煙が高く上がり、世界中の気象に影響を与えたとされる。
※地球的気候異常から、浅間山噴火・凶作・世界的寒冷化・農業不振・冷害となり、やがてはフランス革命などにつながったともいわれている。


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